セッションに初めて来る人は、だいたい緊張している。
それは、とても自然なことだと思う。
店に入る時点で、少し顔が硬い。店に入っても何をしていいか分からず、参加の準備が進まない人もいる。
ちゃんと演奏できるだろうか。
曲を間違えないだろうか。
迷惑をかけないだろうか。
場違いだと思われないだろうか。
たぶん、いろいろなことを考えている。
長くセッションの場にいると分かってくるのだが、初めて来る人に完璧な演奏を期待している人は多くない。
もちろん、演奏できるに越したことはない。
曲を知っていることも、譜面を読めることも、周りの音を聴けることも大事だ。
セッションは一人で音を出す場所ではない。
人と一緒に音楽をする場所である以上、何でも許されるわけではない。
ただ、それでも、最初から全部が分かっている人など、ほとんどいない。
厄介なことではあるが、セッションには、作法のようなものがある。
店に入ったら誰に声をかけるのか。
いつ自分の番が来るのか。
曲はどうやって決まるのか。
どこから始まり、どこで終わるのか。
ソロはどう回っていくのか。
そういうものを少し知っているだけで、セッションはずいぶん怖くなくなる。
作法という言葉を出すと、窮屈に聞こえることがある。
ただ、だからといって、不要なものではない。
茶道でも、料理でも、酒の席でも、遊びにはたいてい作法がある。
最初から全部を知っている必要はない。
けれど、少し知っていると、その場で何が起きているのかが分かる。
セッションの作法も、それに近いのだと思う。
人を縛るためのものではない。
分かっている人だけを残すためのものでもない。
むしろ、初めて来た人が、その場に入っていくための手がかりなのだ。
「作法なんて気にしなくていい」と言うのは、一見やさしい。
けれど、初めて来た人にとって本当に必要なのは、何も知らなくていいという許可ではなく、その場に入っていくための手がかりだったりする。
失敗すること自体は、それほど珍しくない。
曲の出し方が分からないこともある。
呼ばれた時に慌てることもある。
譜面を探すのに時間がかかることもある。
どこにいればいいのか分からなくなることもある。
問題は、失敗したかどうかだけではない。
その時に、周りを見ようとするか。
分からないことを聞けるか。
自分だけで抱え込まず、その場の流れに戻ろうとするか。
そこに、その人の場への入り方が少し出る。
分からないことがあっても、周りは意外と助けてくれる。
受付の仕方を教えてくれる人がいる。
曲の出し方を教えてくれる人がいる。
「次、呼ばれますよ」と声をかけてくれる人がいる。
「この曲ならできますか」と聞いてくれるホストがいる。
もちろん、いつでも完璧に案内されるわけではない。
場によっては分かりにくいこともあるし、厳しく感じることもある。
演奏の中身にまで踏み込みすぎて、その人の音楽を狭くしてしまう言葉もある。それは、あまり良いことだとは思わないが。
それでも、分からないことを分からないままにせず、少しずつ知ろうとしている人は、周りも助けやすい。
作法を知ることは、誰かに従うためだけのものではない。
その場で自分が少し楽になるためのものでもある。
最近は、作法を教えてくれるセッションもある。
動画もある。
昔よりも、最初の一歩を踏み出すための手がかりは増えていると思う。
だから、必要以上に怖がらなくてもいい。
セッションは、分かっている人だけが来る場所ではない。
でも、分からないまま一人で進む場所でもない。
分からないことがあるなら、少しずつ知ればいい。
怖いなら、怖いまま来てもいい。
ただ、その場にいる人の音を聴こうとすること。
分からない時に、周りを見ること。
一緒に音楽を続けようとすること。
たぶん、最初はそれで十分なのだと思う。
初めて来た人が、帰り際に少しだけ表情を緩めることがある。
ただ、思っていたほど怖い場所ではなかったのかもしれない。
もう一度来てもいいかもしれない、と思えたのかもしれない。
それくらいの変化があれば、その日のセッションには意味があったのだと思う。