投稿者: Kitazawa Kazuya

  • 音楽の外側にある不一致

    アマチュアビッグバンドは、よく揉める。

    もちろん、すべてのバンドがそうだと言うつもりはない。
    和やかに続いている団体もあるし、長く活動している素晴らしいバンドもある。

    ただ、長く音楽の場にいると、揉めたビッグバンドの話はそれなりに耳に入ってくる。
    そして不思議なことに、その揉め方にはどこか似たところがある。

    たぶん、揉めているのは音楽そのものだけではない。

    ピッチが悪い。
    リズムが合わない。
    セクションが揃わない。
    そういう問題はもちろんある。

    けれど、実際に揉める時、話はもう少し音楽の外側に出ていることが多い。

    何を目指すのか。
    誰が決めるのか。
    どこまで厳しくするのか。
    誰のために演奏するのか。
    楽しく続けることと、上手くなることのどちらを優先するのか。

    そのあたりが混ざり始める。

    アマチュアビッグバンドには、いろいろな人がいる。

    上手くなりたい人。
    人前で演奏したい人。
    仲間がほしい人。
    地域のイベントに関わりたい人。
    居場所がほしい人。

    どれも否定されるべきものではない。

    ただ、それぞれが見ているものは少しずつ違う。

    ある人にとっては、音楽的に良い演奏をすることが一番大事かもしれない。
    別の人にとっては、参加者が楽しく続けられることが大事かもしれない。
    また別の人にとっては、お客さんに喜んでもらうことが大事かもしれない。

    どれも間違ってはいない。

    だから厄介なのだ。

    同じバンドを見ていても、人によって見えているものは少しずつ違う。
    だから、解釈も一つにはならない。

    音楽への解釈。
    運営への解釈。
    人間関係への解釈。
    継続するための解釈。

    それぞれが少しずつ違うものを見ている。
    そして、それぞれにそれなりの理由がある。

    問題は、その違いが確認されないまま、同じ言葉で話が進んでいくことだ。

    「良いバンドにしたい」と言う。

    しかし、その良いバンドが何を指しているのかは、人によって違う。
    演奏の完成度が高いバンドなのか。
    参加者が楽しく続けられるバンドなのか。
    お客さんが喜ぶバンドなのか。
    長く存続するバンドなのか。

    同じ言葉を使っているのに、見ている場所が違う。

    そうなると、会話は少しずつずれていく。

    目的の話をしているつもりが、いつの間にか役職の話になる。
    音楽の話をしているつもりが、いつの間にか序列の話になる。
    楽しく続ける話をしているつもりが、いつの間にか誰かの態度の話になる。

    そして、疲弊する。

    ビッグバンドは人数が多い。
    人数が多ければ、意見も増える。
    意見が増えれば、誰かの希望は通らなくなる。

    しかも、アマチュアである。

    みんな大人で、みんな自由参加で、みんなそれぞれの生活を持っている。
    誰かに命令される筋合いはない。
    でも、本番に向けては誰かが決めなければならない。

    ここで、責任と権限の曖昧さが出てくる。

    意見は出せる。
    でも責任は取りたくない。
    決めてほしい。
    でも勝手に決められるのは嫌だ。

    こう書くとわがままに見えるかもしれないが、実際にはどれも人間として自然な感情だと思う。

    問題は、それらが同じ場所に同時に存在することだ。

    アマチュアビッグバンドが揉めるのは、誰か一人が悪いからとは限らない。
    人数が多く、目的が複数あり、役割が曖昧で、評価軸も一つではない。

    それでも、全員が同じ「バンド」という言葉の中にいる。

    だから、少しずつ不一致が大きくなる。

    大事なのは、揉めないことではないのだと思う。

    揉めた時に、自分たちは何について話しているのかを見失わないことだ。

    音楽の話なのか。
    運営の話なのか。
    居場所の話なのか。
    承認の話なのか。
    責任の話なのか。

    そこが混ざったまま議論すると、話は遠くへ行く。

    アマチュアビッグバンドは面白い。

    大人が十数人集まって、決して簡単ではない音楽を、仕事でも学校でもない場所で続けようとする。
    それ自体がかなり無理のある、そして魅力的な営みだと思う。

    だから揉める。
    だから面倒くさい。
    だから続いた時には、妙な強さがある。

    音楽の外側にある不一致は、きっとなくならない。

    ただ、それを音楽の話なのか、運営の話なのか、人の話なのか、少しでも分けて見られたら、その場の進み方は少し変わるのかもしれない。

  • セッションの入口

    セッションに初めて来る人は、だいたい緊張している。

    それは、とても自然なことだと思う。

    店に入る時点で、少し顔が硬い。店に入っても何をしていいか分からず、参加の準備が進まない人もいる。

    ちゃんと演奏できるだろうか。
    曲を間違えないだろうか。
    迷惑をかけないだろうか。
    場違いだと思われないだろうか。

    たぶん、いろいろなことを考えている。

    長くセッションの場にいると分かってくるのだが、初めて来る人に完璧な演奏を期待している人は多くない。

    もちろん、演奏できるに越したことはない。
    曲を知っていることも、譜面を読めることも、周りの音を聴けることも大事だ。
    セッションは一人で音を出す場所ではない。
    人と一緒に音楽をする場所である以上、何でも許されるわけではない。

    ただ、それでも、最初から全部が分かっている人など、ほとんどいない。

    厄介なことではあるが、セッションには、作法のようなものがある。

    店に入ったら誰に声をかけるのか。
    いつ自分の番が来るのか。
    曲はどうやって決まるのか。
    どこから始まり、どこで終わるのか。
    ソロはどう回っていくのか。

    そういうものを少し知っているだけで、セッションはずいぶん怖くなくなる。

    作法という言葉を出すと、窮屈に聞こえることがある。
    ただ、だからといって、不要なものではない。

    茶道でも、料理でも、酒の席でも、遊びにはたいてい作法がある。
    最初から全部を知っている必要はない。
    けれど、少し知っていると、その場で何が起きているのかが分かる。

    セッションの作法も、それに近いのだと思う。

    人を縛るためのものではない。
    分かっている人だけを残すためのものでもない。

    むしろ、初めて来た人が、その場に入っていくための手がかりなのだ。

    「作法なんて気にしなくていい」と言うのは、一見やさしい。

    けれど、初めて来た人にとって本当に必要なのは、何も知らなくていいという許可ではなく、その場に入っていくための手がかりだったりする。

    失敗すること自体は、それほど珍しくない。
    曲の出し方が分からないこともある。
    呼ばれた時に慌てることもある。
    譜面を探すのに時間がかかることもある。
    どこにいればいいのか分からなくなることもある。

    問題は、失敗したかどうかだけではない。
    その時に、周りを見ようとするか。
    分からないことを聞けるか。
    自分だけで抱え込まず、その場の流れに戻ろうとするか。

    そこに、その人の場への入り方が少し出る。

    分からないことがあっても、周りは意外と助けてくれる。

    受付の仕方を教えてくれる人がいる。
    曲の出し方を教えてくれる人がいる。
    「次、呼ばれますよ」と声をかけてくれる人がいる。
    「この曲ならできますか」と聞いてくれるホストがいる。

    もちろん、いつでも完璧に案内されるわけではない。
    場によっては分かりにくいこともあるし、厳しく感じることもある。
    演奏の中身にまで踏み込みすぎて、その人の音楽を狭くしてしまう言葉もある。それは、あまり良いことだとは思わないが。

    それでも、分からないことを分からないままにせず、少しずつ知ろうとしている人は、周りも助けやすい。

    作法を知ることは、誰かに従うためだけのものではない。
    その場で自分が少し楽になるためのものでもある。

    最近は、作法を教えてくれるセッションもある。
    動画もある。
    昔よりも、最初の一歩を踏み出すための手がかりは増えていると思う。
    だから、必要以上に怖がらなくてもいい。

    セッションは、分かっている人だけが来る場所ではない。
    でも、分からないまま一人で進む場所でもない。

    分からないことがあるなら、少しずつ知ればいい。
    怖いなら、怖いまま来てもいい。

    ただ、その場にいる人の音を聴こうとすること。
    分からない時に、周りを見ること。
    一緒に音楽を続けようとすること。

    たぶん、最初はそれで十分なのだと思う。

    初めて来た人が、帰り際に少しだけ表情を緩めることがある。

    ただ、思っていたほど怖い場所ではなかったのかもしれない。
    もう一度来てもいいかもしれない、と思えたのかもしれない。

    それくらいの変化があれば、その日のセッションには意味があったのだと思う。

  • 分かっている人

    「彼はビッグバンドを分かっていない」

    十数年前、そう言われたことがある。
    なるほど、と思った。
    私はどうやらビッグバンドを分かっていないらしい。

    ただ、一つだけ困ったことがあった。
    何が分かっていないのかが分からなかったのである。

    演奏だろうか。
    編曲だろうか。
    歴史だろうか。
    運営だろうか。
    組織だろうか。

    考えてみたが、結局よく分からなかった。

    私は10代の頃から演奏の現場にいた。
    ビッグバンドにもいたし、自分で立ち上げたこともある。

    イベントも作った。

    運営もした。

    演奏の依頼も受けた。

    だからと言って、自分が分かっているとは思わない。
    世の中には自分より長く続けている人がいる。

    自分より深く知っている人がいる。

    自分より多くの現場を見てきた人がいる。

    そういう人たちを知っていると、「分かっている」と言うのは案外難しい。

    本当に分かっている人ほど、簡単には断言しない。
    少なくとも私にはそう見えた。

    何かを尋ねると、まず前提を確認する。

    例外を挙げる。

    場合による、と言う。

    時代によって違う、と言う。

    曖昧なのではない。
    知っていることが多いのだと思う。

    一方で、人はまったく分からない時、案外静かである。

    何を聞けばいいのかも分からない。

    何を言えばいいのかも分からない。

    だから黙っている。

    ところが少し見えるようになると、急に言葉が強くなることがある。

    それは違う。

    これは違う。

    あの人は分かっていない。

    少し分かった頃が、一番断言しやすいのかもしれない。
    見えるようになった景色が、そのまま世界の全てに見えるからである。

    音楽の世界でもよくある。

    譜面の読み方を覚える。

    セクションの役割を知る。

    組織の回し方を知る。

    すると急に全体が見えたような気になる。
    だが実際には、見えているのは自分が見えるようになった部分だけだったりする。
    そこを勘違いすると、自分の物差しで人を測り始める。

    自分の知っている形と違う。

    自分の知っている手順と違う。

    自分の知っている考え方と違う。

    だから分かっていない。
    そう言えてしまう。

    私にもそういう時期はあったのだと思う。

    少し知った。

    少しできるようになった。

    少し言葉が増えた。

    その頃が一番、自信満々だった気もする。

    今はむしろ逆である。

    知れば知るほど、自分の知らないものが増えていく。

    だから今でも、自分がビッグバンドを分かっているとは思わない。
    ただ、あの頃の私は何を見ていたのだろう、と考えることがある。

    たぶん、ビッグバンドという形そのものではなかった。
    譜面や編成や役職ではなく、その場で音楽がどう成立するのか。
    人がどう集まり、どう続いていくのか。
    その場に音楽があることで、何が少し変わるのか。

    私が見ていたのは、たぶんそのあたりだったのだと思う。

    では、あの言葉を言った人は何を見ていたのだろう。
    それは今でも分からない。
    ただ、「ビッグバンド」という言葉で指していたものは、どうやら違ったらしい。

    分かっていると言うのは案外難しい。
    だが、分かったつもりになるのは驚くほど簡単である。

  • うまくいった演奏ほど、誰のおかげか分からない

    演奏が終わった。
    客席からは拍手が起きている。
    ソリストは満足そうにしているし、たぶん聴いていた人にも、うまくいった演奏に見えたと思う。

    でも、その途中で何度か細い綱を渡っていたことを知っている人間は、この場に数人しかいないはずだ。

    うまくいった演奏のあと、人はソロを取った人や派手だった人を思い浮かべる。

    それは当然のことだ。

    演奏には前に出る人が必要だ。
    テーマを吹く人、ソロを取る人、客席の視線を集める人がいなければ、音楽は動かない。
    だから目立つことが悪いわけではない。
    むしろ、前に出る人がいるから場は始まる。

    しかし、その裏には一歩引いた場所で仕事をこなす人がいる。

    そういう仕事は、うまくいけばいくほど目立たない。
    なぜなら、目立たないこと自体が成功だからである。

    テンポが少し前のめりになったとき、急に引っ張り戻すのではなく、何小節かかけて自然に落ち着かせる人がいる。

    誰かがフォームを見失いかけたとき、次の頭を少しだけ強く示す人がいる。

    ソリストが行き先を探しているとき、余計なことをせず、ただ帰る場所を置いておく人がいる。

    聴いている側からすると、何も起きていないように見える。
    でも本当は、何も起きなかったのではない。
    何かが起きそうになったところを、誰かが受け止めているのである。

    そういう人たちに、何度も助けられてきた。

    自分がどこにいるのか少し分からなくなったとき、何も言わずに次の場所を示してくれた人がいる。

    熱くなりすぎて周りが見えなくなったとき、横で淡々と支えてくれた人がいる。

    前に出るのをためらっていたとき、すっと場所を空けてくれた人がいる。

    そのときは、そこまで分かっていなかったのだと思う。
    ただ、演奏が終わると「今日はやりやすかった」と感じる。
    なぜやりやすかったのか、はっきり言葉にはできない。
    でも、変なところで転ばなかった。
    行き先を見失わなかった。
    少し無理をしても、帰ってこられる場所があった。

    そういう支え方があるのだ。

    派手なプレイは分かりやすい。

    高い音、速いフレーズ、強い音、意外な展開。
    そういうものは客席にも届きやすいし、記憶にも残りやすい。

    一方で、戻す人や支える人の仕事は、場に溶け込んでしまう。
    うまくいけばいくほど、「最初からそうだった」ように見える。

    けれど、長く現場にいると、少しずつ見えてくるものがある。

    上手い人というのは、必ずしもたくさん弾く人のことではない。
    もちろん弾けることは大事だ。

    ただ、それとは別に、「今ここで何が必要か」を見ている人がいる。

    前に出るべきなのか、引くべきなのか、支えるべきなのか、戻すべきなのか。

    その判断ができる人がいる。

    そして不思議なことに、そういう人たちに助けられているうちに、いつの間にか自分も同じような場所に立っていることがある。

    別に、立派な役割を引き受けたつもりはない。

    誰かを支えてやろうと思っているわけでもない。

    ただ、少し危ない気配がしたときに、前に出るより先に全体を見ている。

    誰かが迷いそうなときに、自分が目立つことより、帰る場所を置くことを考えている。

    場が大きく揺れたときに、一緒に揺れるより、どこに重心を戻すかを考えている。

    たぶん、昔そうしてもらったからだと思う。

    戻す人は、戻したことを誇示しない。

    成立させる人は、成立させたことを説明しない。

    目立たない人は、目立たなかったことによって役割を果たしている。

    演奏が終わって、客席が普通に拍手をする。

    誰も事故に気づいていない。

    ソリストは気持ちよく吹ききった顔をしている。

    バンド全体も、「今日はよかったね」という空気になっている。

    それでいいのだと思う。
    いろいろな人の小さな仕事が、手柄として見えないところまで溶け込んでいる。

    うまくいった演奏ほど、誰のおかげか分からないものなのだ。

  • 手段が目的を追い越すとき

    「遊びでやってるんじゃないんです!」

    ミーティングの場で大きな声が響いた。
    人は呆れると黙るらしい。
    あの日の私は、まさにそうだった。

    そのビッグバンドは、市民参加型の企画として立ち上げたものだった。
    当時、私が所属していた団体は地域で音楽イベントを開催していた。
    地域を音楽で盛り上げる。
    そういう目的を掲げた団体だった。

    ただ、私には少し疑問があった。
    演奏する側がやりたいことと、地域が求めていることは本当に同じなのだろうか。
    そんなことを考えていた。

    そこで提案したのが市民ビッグバンドだった。

    上手い演奏を見せることが目的ではない。
    地域の人たちが集まり、少しずつ上達し、その様子を地域の人たちに見てもらう。
    言ってしまえば、私は完成品ではなく過程を見せたかった。

    立ち上げ当初は苦労した。

    人は集まらない。

    金もない。

    成功する保証もない。

    特に金管楽器が集まらず、他団体の協力まで仰いでようやく形になった。

    今思えば、一番静かだったのはこの頃だった。

    意見も少ない。

    口を出す人も少ない。

    みんな忙しかったのだろう。

    一年ほど活動を続けた頃、最初のライブを迎えた。

    会場は満員になった。

    予想以上の成功だった。

    もちろん嬉しかった。
    ただ、今思えば、その頃から少しずつ見ているものが変わり始めていたのかもしれない。

    ある人は、自分たちが上手いから客が来たと思ったらしい。
    私にはそうは思えなかった。
    そもそも、そんなものを見たければもっと上手いバンドはいくらでもある。

    少なくとも私には、お客さんは別のものを見に来ていたように思えた。

    まだ完成していない人たちが、一生懸命に演奏している。

    その姿を見に来ていたのだと思う。

    成功すると状況が変わる。

    バンドの立ち上げにはあまり興味がなかった人たちも、成功すると急に熱心になった。

    もちろん悪いことではない。

    誰だって完成した神輿の方が担ぎやすい。

    ただ、不思議なことに、そういう人ほど組織の話が好きだった。

    音楽の話ではなく、組織の話である。

    誰が責任者なのか。

    誰が決めるのか。

    誰が上なのか。

    そういった話題が増えていった。

    また、成功すると専門家も増えるらしい。

    立ち上げの頃には聞かなかった意見をよく耳にするようになった。

    人間というのは経験を積んで成長する生き物である。

    数ヶ月前まで興味を示していなかった案件についても、驚くほど詳しくなることがある。

    やがて役職を作ろうという話になった。

    バンマスとコンマスである。

    私は反対した。
    役職が嫌だったわけではない。
    ただ、それが本質だとは思えなかった。

    地域に音楽を増やす。

    そのためにビッグバンドを作った。

    私の中では順番がそうなっていた。
    ところが周囲は違った。

    ビッグバンドを続けること。

    組織として大きくすること。

    役職を整えること。

    そういった話が中心になっていった。
    もちろん、それらは必要なことだったのだろう。
    ただ、私には少し不思議だった。
    いつの間にか、目的だったはずのものが見えなくなっていたからだ。

    そして、あのミーティングの日を迎える。

    「遊びでやってるんじゃないんです!」

    その言葉を聞いた時、私は何も言わなかった。
    正直に言うと、今でもよく分からない。
    私はあの日、遊びか本気かという話をしていたつもりはなかったからだ。

    何を大切にするのか。

    何のためにやっているのか。

    その話をしていたつもりだった。

    演奏が上手くなること。

    組織を維持すること。

    役職を作ること。

    どれも大切なことだ。
    ただ、それらは本来手段だった。
    少なくとも私にとっては。

    役職の話をしている人がいた。

    組織の話をしている人がいた。

    演奏の話をしている人がいた。

    そして私は、最初の目的の話をしていた。

    会話が噛み合うはずがない。

    当時の私は理解できなかった。
    今でも正直よく分からない。
    ただ一つ、覚えていることはある。

    あの時議論されていたものは、その後も何度か形を変えて繰り返されることになる。

    地域の話ではなかったのだろう。
    少なくとも私にはそう見えた。

    地域に音楽を増やすために始めたはずなのに、気が付くと地域の話をしている人はほとんどいなかった。

    しかし、自分たちが何をやりたいかは、みんなよく知っていた。

    どうやら、地域が何を求めているかについては、あまり興味がなかったらしい。

  • 人はなぜセッションに来るのか

    セッションホストを長くやっていると、時々聞かれることがある。

    「みんな何しに来てるんですか?」
    改めて考えてみると、実はよく分からない。

    もちろん演奏しに来ている。
    それは間違いない。
    でも、それだけでもない気がする。

    上手くなりたい人もいるだろう。

    仲間を探している人もいるだろう。

    誰かに認められたい人もいるだろうし、暇つぶしだってあるかもしれない。

    どれも不思議ではない。
    人間なのだから、承認欲求はあって当たり前だ。
    ただ、長年見てきて思うのは、そのどれか一つに決めることもできないということだ。

    そもそも同じ人でも理由は変わる。

    若い頃は上達したくて通っていた人が、数年後には顔なじみに会いに来るようになることもある。

    逆に、なんとなく来ていた人が、気が付けば真面目に音楽と向き合っていることもある。

    どちらも特別な話ではない。
    むしろよくあることだと思う。

    だから、「この人は上達のために来ている人」「この人は仲間を探しに来ている人」といった見方は、あまり意味がないような気がしている。

    人はそんなに単純ではない。
    同じ人でも、その時々で求めているものは変わる。

    そういえば、自分だってそうだった。

    昔はとにかく演奏したかった。
    今はどちらかと言うと聴いている方が楽しい。
    ベーシストが少ないので結局弾くことになるのだけれど。

    ホストを続けてきた理由だって一つではない。

    修行のつもりだった時期もある。

    仲間を探していた時期もある。

    頼まれたから続けていた時期もある。

    暇つぶしだった部分もある。

    もし誰かに「本当の理由は何ですか」と聞かれても、自分でもよく分からない。

    だから、人はなぜセッションに来るのかと聞かれても、結局は同じ答えになる。

    私には分からない。

    いや、正確には、一つには決められない。

    同じ人でも理由は変わる。

    昨年の理由と、今年の理由が違うことだってある。

    結局、答えは一つではないのだと思う。

    だから私は、この人は何のために来ているのだろう、と考えるのをやめた。

    演奏しに来ている。

    まずはそれで十分なのだと思う。

  • 代理人生

    「分かってます。大丈夫です。全力で誤魔化してください」

    結婚式の演奏を頼まれた。
    それ自体は珍しい話ではない。
    ただ、その日は少し事情が違った。

    本来演奏する予定だったベーシストがコロナで来られなくなったらしい。

    そこで私に連絡が来た。

    詳細は何もわからない。「よろしく」「OK」これだけだ。

    依頼があったのが当日の午前中。
    結婚式というのは午前式、午後式とあるが、この日は両方の依頼。そして午前式は10時頃から始まる。
    つまり本番まで時間がない。
    礼服を引っ張り出し急いで車に楽器を放り込む。

    車での移動中に披露宴ではなく、チャペルでの式そのものだということがわかる。
    そして送られてきた楽譜がクラシックの楽譜であることも。

    私はクラシックのベーシストではない。

    さすがに不安になって、現場で他のミュージシャンに確認した。

    「クラシックできないんですけど……」

    すると返ってきたのは

    「分かってます。大丈夫です。全力で誤魔化してください」

    という言葉だった。

    なるほど。

    そういう依頼だったらしい。

    結局その日はなんとか終わった。

    もちろん反省点はいくらでもある。

    それでも式は無事に終わった。

    帰り道だったか、後日だったかは覚えていない。

    ただ、その時ふと思った。

    そういえば私は、こういうことが妙に多い。

    最初にベースを持った時もそうだった。

    15歳の頃、友人たちとビッグバンドを作っていた。

    私はパーカッション担当だった。

    ところがベーシストがいなくなった。

    理由は知らない。

    むしろこちらが聞きたいくらいだ。
    もっとも今となってはどうでもいいことではあるが。

    するとバンドリーダーが言った。

    「お前やれ」

    それが私のベース人生の始まりだった。

    別にベースに憧れていたわけではない。

    運命的な出会いがあったわけでもない。

    単純に、そこが空いた。

    だから座った。

    それだけなのだ。

    10代後半の時には企業パーティーでの演奏依頼が来た。

    これが初めてのギャラ仕事だった。

    といっても、これも代理だった。

    本来出演する予定だったベーシストが来られなくなり、知人経由で声が掛かった。

    頼まれたので行った。

    それだけである。

    その後、20歳で怪我をして一度音楽から離れた。

    右手を痛め、思うように弾けなくなった。

    治療やリハビリは続けたが、次第に楽器から遠ざかっていった。

    気が付けば6年ほど経っていた。

    もうベースは弾けないものだと思っていた。

    そんな頃だった。

    あるビッグバンドのリハーサルで、ベーシストが欠席した。

    当時そのバンドを指導していたクラリネット奏者に言われた。

    「代わりに弾け」

    こちらとしては困る。

    まともに弾くことはできないとわかっているのだ。

    それでも久しぶりにベースを持ち、Take The A Trainを弾き始めた。かつて何度も弾いた曲だ。身体は覚えていたらしい。

    後半のトランペットソロの最中だった。

    手が動きを止めた。

    「あぁ、やっぱりな」

    6年経ってもまともには弾けない。

    ところがその人は笑いながら言った。

    「なんだ、弾けるじゃないか」

    少なくとも、その人には私とは違うものが見えていたらしい。

    その出来事をきっかけに、私は再びベースを弾き始めることになる。

    振り返ると、その後も代理の仕事は多かった。

    ホストの代理。

    ライブの代理。

    急な欠員の代理。

    そしてチャペルでの代理。

    ただ、自分ではそれを特別なことだと思ったことはない。

    頼まれた。

    予定が空いていた。

    だから行った。

    それだけである。

    そういえば最初にベースを持ったのも代理だった。

    復帰した時も代理だった。

    ある時は代理でチャペルでクラシックを弾いていた。

    翌日はフュージョンを演奏し、その翌日はニューオリンズジャズを演奏していた。

    こうして並べると代理ばかりだ。

    もっとも、自分ではそんなつもりはない。

    たまたま予定が空いていた。

    それだけの話である。

  • 人を見る人、音を見る人

    ジャムセッションの始まりについては諸説ある。
    ただ、よく語られる話のひとつに、ビッグバンド時代のミュージシャンたちの話がある。

    毎日、同じ曲を演奏する。

    毎日、同じアレンジを演奏する。

    それは仕事としては当たり前のことだったが、若いミュージシャンたちにとっては少し物足りなかったらしい。

    もっと自由に演奏したい。

    もっと試したい。

    もっと競いたい。

    そんな人たちが仕事の後に集まって演奏を始めた。
    それが後にジャムセッションと呼ばれる文化の源流のひとつになったと言われている。

    だから私は、ジャムセッションとは何かと聞かれると少し困る。

    腕試しの場だったと言われればそうだと思う。

    交流の場だったと言われてもそう思う。

    学びの場だったと言われても否定できない。

    居場所だったと言われても、それもまた事実だろう。

    長くセッションに関わっていると面白いことがある。
    同じセッションを見ていたはずなのに、感想が全く違うことがあるのだ。

    ある人は「あの店は雰囲気が良い」と言う。

    ある人は「初心者が安心して参加できる」と言う。

    ある人は「あの人のソロが素晴らしかった」と言う。

    ある人は「今日はお客さんが楽しそうだった」と言う。

    最初は価値観の違いだと思っていた。
    音楽を重視する人。
    コミュニティを重視する人。
    教育を重視する人。
    そういう違いなのだろうと。

    でも最近は少し違う気がしている。
    価値観が違うのではなく、そもそも見ているものが違うのではないか。

    セッションについて語る人の話を聞いていると、その人が何を見ているのかが少しずつ見えてくる。

    居場所を見ている人がいる。

    安心感を見ている人がいる。

    コミュニケーションを見ている人がいる。

    演奏を見ている人がいる。

    成長を見ている人がいる。

    私はどちらかというと演奏側の人間だと思っていた。
    誰が人のソロを聴いていたか。
    誰が流れを作ったか。
    誰がリカバリーしたか。
    そういうところによく目が行くからだ。

    ところが、今回あらためて考えてみると少し違った。
    私がセッションを振り返る時、最初に思い出すのは案外お客さんの反応だったりする。
    楽しそうだったな。
    盛り上がっていたな。
    また来てくれるかな。
    そんなことを考えている。

    つまり私も人を見ている。
    ただ、見ている人が違うだけなのだ。

    人は自分が見ているものを本質だと思いたくなる。

    コミュニティを見ている人は、コミュニティこそが大切だと思う。
    演奏を見ている人は、演奏こそが大切だと思う。

    どちらも間違いではない。

    でも、どちらかだけが正しいわけでもない。

    厳しいセッションが好きな人もいる。

    和やかなセッションが好きな人もいる。

    高いレベルで挑戦したい人もいる。

    安心して参加したい人もいる。

    たぶん全部あっていい。

    ジャムセッションという文化は、最初からそんなに単純なものではなかったはずだから。

    人は自分が見ているものを本質だと思いたくなる。

    だからこそ、ときどき自分が何を見ているのかを疑ってみるくらいが、ちょうどいいのかもしれない。

  • 後ろから見た世界

    演奏中、新しいお客さんが店に入ってきた。

    見たことのない人だった。

    入口のあたりで少しキョロキョロしている。

    スタッフはまだ気付いていない。

    私はベースを弾きながらスタッフの方を見て、軽く首を振った。

    スタッフが気付いて対応する。

    それだけの話だ。

    後から考えると少し不思議だ。

    なぜ演奏中にそんなものが見えているのか。

    でも、その時は特に何も考えていなかった。

    困っていそうな人が見えた。

    スタッフはまだ気付いていないようだった。

    だから合図した。

    それだけだった。

    よく「ベーシストは全体を見ている」と言われる。

    たしかにそう見えるのかもしれない。

    でも、自分ではあまりそんな感覚がない。

    むしろ昔は逆だった。

    20代の頃、一度怪我で演奏から離れた時期がある。

    復帰したのは26〜27歳くらいだった。

    復帰直後は、自分のことで精一杯だったと思う。

    邪魔しないようにしなきゃ。

    迷惑をかけないようにしなきゃ。

    ちゃんと弾かなきゃ。

    見ていたのは周りではなく自分だった。

    ところがホストを始めてから少しずつ変わった。

    ありがたいことに私が関わるセッションは初心者が多かった。

    曲を見失う人もいる。

    フォームが分からなくなる人もいる。

    ソロの入り口が分からなくなる人もいる。

    そういう場面に何度も立ち会った。

    迷いやすい曲というのもある。

    8小節、8小節、8小節と来て、なぜか最後だけ9小節あるような曲だ。

    ああいう曲は危ない。

    だから最初から少し警戒している。

    すると案の定、誰かが迷う。

    同じフレーズを繰り返し始めたりする。

    音量が変わったりする。

    そういう時はルートを強調したり、アプローチノートを増やしたりする。

    時にはルートだけ弾く。

    交通整理だ。

    誤解されそうだけれど、誰かを助けようと思っているわけではない。

    初心者だから優しくしよう、という話でもない。

    単純に、このままだと曲が成立しなくなる。

    だから整理する。

    結果としてその人も戻ってくる。

    ただ、それは目的ではなく結果だ。

    もちろん交通整理ではどうにもならない時もある。

    ニューオリンズの街を散歩していたはずなのに、気付いたらイエローストーン国立公園にいるようなケースだ。

    そこまで行くともう道路標識では解決しない。

    次のソロに強引に入ってもらう。

    ドラムソロに飛ぶ。

    あるいは馬鹿でかい声で「次B!」と叫ぶ。

    そんな力技も必要になる。

    こうして振り返ると、私は人を見ているようでいて、人そのものを見ているわけではないのかもしれない。

    好き嫌いの話でもない。

    見ているのは、その人が今どこにいるのかだ。

    曲の中で。

    場の中で。

    流れの中で。

    演奏中、私が演奏そのものに使っている意識は3割くらいかもしれない。

    残りはプレイヤーの反応を見たり、お客さんの様子を見たり、ライブなら次のMCで何を話そうか考えていたりする。

    ベーシストだからなのか。

    ホストを長くやったからなのか。

    正直よく分からない。

    たぶん両方だろう。

    ただ一つ分かるのは、私は全体を見ようと思って見ているわけではないということだ。

    気付けば、今どこにいるのかを確認する癖がついていただけなのだと思う。