人を見る人、音を見る人

ジャムセッションの始まりについては諸説ある。
ただ、よく語られる話のひとつに、ビッグバンド時代のミュージシャンたちの話がある。
毎日、同じ曲を演奏する。
毎日、同じアレンジを演奏する。
それは仕事としては当たり前のことだったが、若いミュージシャンたちにとっては少し物足りなかったらしい。

もっと自由に演奏したい。

もっと試したい。

もっと競いたい。

そんな人たちが仕事の後に集まって演奏を始めた。
それが後にジャムセッションと呼ばれる文化の源流のひとつになったと言われている。

だから私は、ジャムセッションとは何かと聞かれると少し困る。

腕試しの場だったと言われればそうだと思う。

交流の場だったと言われてもそう思う。

学びの場だったと言われても否定できない。

居場所だったと言われても、それもまた事実だろう。

長くセッションに関わっていると面白いことがある。
同じセッションを見ていたはずなのに、感想が全く違うことがあるのだ。

ある人は「あの店は雰囲気が良い」と言う。
ある人は「初心者が安心して参加できる」と言う。
ある人は「あの人のソロが素晴らしかった」と言う。
ある人は「今日はお客さんが楽しそうだった」と言う。

最初は価値観の違いだと思っていた。
音楽を重視する人。
コミュニティを重視する人。
教育を重視する人。
そういう違いなのだろうと。

でも最近は少し違う気がしている。
価値観が違うのではなく、そもそも見ているものが違うのではないか。

セッションについて語る人の話を聞いていると、その人が何を見ているのかが少しずつ見えてくる。

居場所を見ている人がいる。

安心感を見ている人がいる。

コミュニケーションを見ている人がいる。

演奏を見ている人がいる。

成長を見ている人がいる。

私はどちらかというと演奏側の人間だと思っていた。
誰が人のソロを聴いていたか。
誰が流れを作ったか。
誰がリカバリーしたか。
そういうところによく目が行くからだ。

ところが、今回あらためて考えてみると少し違った。
私がセッションを振り返る時、最初に思い出すのは案外お客さんの反応だったりする。
楽しそうだったな。
盛り上がっていたな。
また来てくれるかな。
そんなことを考えている。

つまり私も人を見ている。
ただ、見ている人が違うだけなのだ。
そしてたぶん、人は自分が見ているものを本質だと思いたくなる。
コミュニティを見ている人は、コミュニティこそが大切だと思う。
演奏を見ている人は、演奏こそが大切だと思う。
どちらも間違いではない。

でも、どちらかだけが正しいわけでもない。

厳しいセッションが好きな人もいる。

和やかなセッションが好きな人もいる。

高いレベルで挑戦したい人もいる。

安心して参加したい人もいる。

たぶん全部あっていい。

ジャムセッションという文化は、最初からそんなに単純なものではなかったはずだから。

人は自分が見ているものを本質だと思いたくなる。だからこそ、ときどき自分が何を見ているのかを疑ってみるくらいが、ちょうどいいのかもしれない。